夢メモ、疲れを癒したい人

夢メモ
前も夢に出てきたのと同じ土地、O県某市の山奥の、架空の場所。
景色もほぼ同じ。
丘の上で、温泉があって、(前回はギリシャ風?ローマ風?の温泉、今回はスーパー銭湯ふう。地形を活かしたつくりになっている)
見える景色は、
岩に草木が生えたようなごつごつした豊かな山があって、丘に立つと断崖の下に見える谷間の平地の一部が、自然の菜の花畑になっている。
今回は菜の花は半分くらいで少なくて、あとは紫色の花だった。

友達KNとTMで、そこに行く夢。

内容はまぁそんなに面白くはなく。

それより繰り返し夢で見る風景というのが、起きてから気になって。
似たような景色がないかと画像検索したけど、あまりない。
ただ、雰囲気というか空気感が似てるのがあって
それは中村元さんが撮ったチベットの風景だった。

そういえば、もうひとつ夢に何度か出てくる架空のお寺も、チベット寺院ぽい雰囲気で…

いつか『視える人』に会いに行ったときも、
前世でチベットのお坊さんだったことがあると、聞いた。

夢占いによると、温泉の夢は疲れてるときに見るらしい。
疲れはそういえばあります。無視しがちだけどね… 
疲れを癒すことを潜在的に求めているときに夢に見る風景が温泉とチベットっぽい山岳の菜の花畑なら、どれほどそっちに惹かれているんだろう…。
そうね夢はいろいろなことを教える。
最近の夢見はなかなかにエモーショナルだ。
むかし付き合っていた彼の夢とかね。
それにね夢は人間の歴史を背負ってるのかもしれない。
自分、だけでなく、これまで紡がれてきた魂の歴史を、思い出すことがある場所が夢の中なのかもしれないね。

封印してる記憶も、あるのはなんとなく察してる。アフリカ時代。
かなしい記憶がきっとあるんだよね。
人間の歴史は、悲しみが多いから。

いまここに生きる私にしたって、そう。
ま、いまはちょっと疲れてるんだろうな…
自己否定の結果の他害だから。ほぼすべての、悲しみは。 
ああ、どうすれば自分をまるごと愛してやれるんだろうか?
どうしたらフェアでいられるだろう?
どうしたら自立できるだろう?
そんなふうに、悶えながら、生きている。

悩み多き、年頃。
(32才。)

チベットいきたい。
アラスカいきたい。
自分を癒す旅に出たい。
アホみたいだけど。

イタリアもいきたいし
東北もいろいろ行きたい

まいにちお風呂はいりたい。。

褒められて、どうする。

何日か前の書きかけを、終わらしてup~~。

今日、シャワー中、ふと悟ったこと。

人から褒められることがあったとしますよね。
容姿でも、人格でも、特技でも、なんでも。

でも、褒められてもどう受け取ったらいいか、わからない。よね。
そりゃあ、positiveな言葉をもらえるのは嬉しいし、そう言ってくれてるわけだから、ありがとう、ってとりあえず返すよね。

俺様タイプの人だったら、 うん、まぁ褒められて当然。自分はそれだけの価値のある人間だから。と思うよね。そして自尊心さらにあがるよね。

でもだいたいの人は、いや、私は。お礼をいってとりあえず相手を褒め返す。か、面白い反応でもしとく。とか、会話につなげる。とかで、大人なリアクションをしなきゃって義務感?焦り?みたいなものが先立って、
褒められたことじたいの消化の仕方はよくわからないんだよね。
だから、褒められるとうれしいようで面倒くさいような気持ちにすら、なる。
そこまで考える必要ないのにね!笑


じゃあ褒められたらどんなふうに消化するのが正しいというか健康的なのかな?

それは、
相手が言ってくれたその気持ちはありがたく受け取る。そして、その内容については、自省に役立てる。その瞬間、その内容を省みる。
すると、自省に役立つことを言ってくれたことに、二重に感謝する。
この深くまで浸透する飲み込みの往復が、
誉め言葉への健康的な消化と自然な反応になる。



もしかしたら皆、そうしているのかもしれない。その結果、お堅かったり形式ばった応答になるのかもしれない。
社会的な立場のある人とかって、褒められたら、恐縮です、いっそう精進します的な反応するでしょう?
でもそれはテンプレートで答えてる訳じゃなくて、誉め言葉をしっかり受け取った結果、純粋にそういう反応になっただけのことなのかもしれない。思い返せば、そういう経験、自分自身に幾度もあった。でも、そういうときは『失礼があってはならない』というルールが、純粋さより先にあったような気もするような…。
友達では逆に、茶化したり笑いに持っていったりしようとして、『真面目すぎてはいけない』 なんて考えてたりね。


褒められたら、その瞬間、その内容を省みて自省として役立てる。
自省に役立つことを言ってくれた、褒めてくれたことに感謝する。

また、容姿を褒められたら容姿を誉め返す。
特技を褒められたら特技を。
人格を褒められたら人格を。

これは、しっかり覚えておこう。
そして、実践ジャーになるのだ。





お寺で働きたい!!だって尼僧だもん

ふわあぁぁぁぁぁぁあ

あかん!あかん!


多少の援助はあるものの
やはりきちんと働きお金を得なければならない。
資格をとる?
バイトする?
学校通う?

どれもしっくりこないんだ。
シングルマザー おすすめ 資格 で検索したり
職業訓練のサイトのぞいてみたり
ハローワーク検索してみたり

したけれど。

お寺で働きたい。
曲がりなりにも、尼僧。
お大師さんとのご縁をいただいた。

お寺で働きたい。


元旦那とのことはどうしようもなかったけど
お寺での暮らしや仕事はやりがいがあった。

計画!!
10月某日、某とっても好きなお寺で、
お祭りのボランティアを募集している。
終わったあとはお茶会があるらしい。
どうにか子供達都合つけて、
ボランティアに行って、アルバイトさせてもらえないかとっこむ!

普通の生き方なんてできない。
思春期もその後も普通じゃなかった。
結婚後もその後も普通じゃなかった。

どうせ働くなら、いちばん自分の気持ちがパリっとするところで働きたい!

そんなにうまくいくわけない、かもしれない。
けど、某お寺、そこは、私がお釈迦様にそのお姿を体感させてもらった
私の宗教的体験の原点の場所。
そんなところで働けたら。

そうなったらいいな。

ひさしぶりに、強く強く願うことが、というよりもはや欲望!!が湧いてきた。

ガンガンいこーぜ。


お寺で働きたい!!!!


早起きかなぁ

赤ちゃん、夕方から覇気がないなぁと思ったらやはり夜から発熱。
水のような下痢

明日は近所のおかあさんと防災の話する予定だったんだけど…厳しいかもしれない情勢 
まあ仕方ない 

外食費がかかりすぎている
休日はどうしても家のなかでは済まないので外出し、すると疲れるので外食になる…
でもお昼食べてからとなると
それまでに部屋はぐちゃぐちゃに散らかる
3人いたらテキパキなんてできないよ
一食用意するだけでも大変なんだよ
あーどうしよ

なんにせよ 早起きするしかない気がする
こどもが寝てるあいだにできることをするというね…


お叱りとポジション

今日は娘を叱った。

長女というポジションが、
こちらが求めてなくても役割を自覚させ、 それ自体は自然なことで良い悪いではないのだけど、行きすぎて困ったことになることがある。
これまでも何度か叱ったけど。

弟はあなたのおもちゃじゃない。
そうやって人をおもちゃのようにするくせがついてるから、
弟にだけでなく、私にも、祖母にも、最近すごく偉そうな態度がひどい。
そうやってしてると 誰もあなたと遊びたくなくなって あなたが悲しい思いをする。
シンデレラのいじわるお姉ちゃんみたいになりたくないよね。アースラみたいになりたくないよね。
そんなふうに叱った。 
弟は、あなたみたいにうまく話すこともできないし、優しいからあんまり怒らないでいつも言うこと聞いてくれるけど、
もしママが同じようにされたら、しょっちゅう怒るよ。弟は優しいから怒らないけど、ふつうすっごく怒るよ。と。

ついでに、
ママは小さいときお姉ちゃんのほうが強くて、ママが悪いわけじゃないのにいじわるされてもやりかえせないし泣くことしかできなくて、とてもつらかった。 
弟にそうだよ?とも話した。
じっさい、うちの姉は私への当たりがひどかったので、しょっちゅう泣かされたり無視されたりしてたので、実感こもりすぎの話だったかしら、と(笑) 
 前々からだったけど、ここ数日は目に余って、注意しても変わらず、いよいよ今日、雷が落ちました。

きっかけは、弟が『ママ、お水ちょーだい』と言いにきたら
娘は椅子に座ってテレビを見ながら顎だけ私に一瞬向けて、『私が先、ちょーだい』と言い放った。
これはあかん。と、とうとう、『こっちを向いてそこに座りなさい。』となりましたよ。

娘は、弟とぬいぐるみとかで遊ぶとき、『○○って言って』『○○○って言って』と、台詞をぜんぶ自分で決めて弟に言わせる。それもすごい矢継ぎ早に。
いままでは多目に見てたけど、もう全体的にあかん領域までなったので、
もうそれをしない。と約束した。

 
長女や長男、最初の子というのは、
親に複雑な気持ちを持たせるものである。

長女シンドロームとか言われるように、
後から生まれた子がいろいろ自分のやりたいことの邪魔をしたりするから、ときに必要以上に自分のポジションや優位性をを守ろうとしてしまうし、それでいて責任感というのも早くから感じてしまう。

長女は、大変な仕事をしてるのです。
のびのびさせる二人だけの時間も、大切にしてきたつもりだけど…娘からはもっとと要求されてるなー。
 
はじめての子が大変なもうひとつの肝心な理由。それは、
長子がはじめてのことは親もはじめて、ってこと。
長子のはじめてのチャレンジは親もはじめてのチャレンジは。
長子の悩みと解決は親もはじめての悩みと解決。 
長子は、親の迷いながらの『はじめて』に生まれたときからずっとずっと付き合ってくれて、下の子たちも通る道を通りやすくしてくれる。 

(昨日寝落ちしたやつ。)

暦と私の生きる道。

秋分を迎えてから二日経つ。

昔の人が天体、夜空やお日様や月をずっと観察して
それと自然のはたらきとの関係を見つけだして
つくりあげてきた暦。
種を蒔くのは新月がいい 収穫は満月がいい
いつが昼と夜が当分になって
いつがいちばん昼が長くて
いつがご先祖様の霊を歓迎して
いつがお祝いによくて…
感動する。
マヤの人達なぞ、人間の範疇を超えたような大きな何百年何千年というサイクルを見つけている。
星座もそう。
自分が生まれたとき太陽はどこにあったか。それが普通のいわゆる星座。
月があったところが月星座。
それだけではなくて、他の星座も、惑星も、その角度も、すべてが影響しあって、
人間含んだ自然界に及ぼすいろんなことを、
たくさんの人が、科学的(反証可能な現実)に・霊感的に・研究して、時を耐え抜いて、いま存在している。

だから、秋分とかマヤの新年とかは、ワクワクする。
いわゆる普通のグレゴリオ暦のカレンダーには、あまりワクワクしない。
お正月に帳尻が合うだけで、月の動きも、惑星の動きも、関係ないもの。
旧暦や古代歴のほうが、より、自然の一部としての人間の営みを体感することができる。

私はまだまだな人間だ。
超未熟。
きっと、多くの人もそうなんだろう。
ただ
お金と惰性と支配に管理されたような社会のなかで、暦や天体のことを知るのは
いのちの原点に近づくことのような気がする。
それが成長につながるというより、見えなくなったものを見えるようにするという原点回帰。
原点回帰して見える風景は、いまより豊かだったり赦されていたりするんじゃないかな。


独身時代はマヤ歴の手帳で生活していたけど、子育てしたり無私になってくると書き込む暇がなくてすっかりやらなかった。
惜しくて、白紙ばっかりになると半分わかっていても二年は注文し続けた。
それくらい、マヤ歴での生活が心地よかったのだ。


最近、また、自分を更新されるような出会いがいろいろあります。
芽生え始めた意欲もあります。
感動と修行がいっぺんにくるね。
そんなときはやっぱり体感に良い暦で暮らしたいね。
グレゴリオ暦は忙しすぎるし遅すぎる。

暦=天体=数秘=生命
知識ではなくて、自分の中に生かす智慧。

ちなみに我が子三番目の娘には慧の字がつきます。
名前も、親が考えたようで、じつは生まれる前魂のころから本人が決めてきてるって、ほんとかな?




今日という日もありがとうございました。


水の惑星、緑の惑星、いのち溢れる惑星地球。
そのある島国の、進化と退化をいっぺんにあらわしている、星の見えない東京から。
それでも地球は回ってて、星々はめぐっていて、きらめいて、生まれて消えて、
美しい。
美しい。
美しい。