低迷の中の学びの春
この春は
低迷 ひくく まよう メンタルのなかで
学び多き 春だったと思う
1、あの人に会ったこと
2、やっぱり生業は料理しかないなという気持ち
3、『おかあさん』をやめ『わたし』になること
弱ると、出てくる、淡い記憶は、反芻するうちに、美化され、愚かとわかっていながら、
ここ数年、つくりものの宝石のように、手放せないでいた。
しかし再会をし、現実を知ると、
あぁ、やっぱり幻想だったと、切り取って保管することはよくないとわかったので、
いとも簡単に 振り回されなくなった。
あの人の悪いところが悪いままだったから。
相変わらず足掻いていたから。
もしも、存外にかっこよくて、幸せにしていたら、
それはそれで、泣いたあと諦めがついただろう。
どのみち、あの頃ではなくて、いまのわたしがあり、いまの彼があり、という現実を目にできて、夢から覚めた。
幸せであってほしい とも あってほしくない とも 今は感じない。
ただ、あぁ 在るんだなぁという感じ。
誰も 私も。
なんかもう
『おかあさん』は うまくいかないので
『わたし』になることにした。
『おかあさん』『おかあさんだから』という言葉に 理想を科していたのは自分だった。
わーたーしーはーわーたーし。
保護者会もさぼってやった。
適当に力抜いていくべし。
長いあいだ 『そうでありたい』と
描くおかあさん像を 自分に思い込ませていた。本当は思ってないことを 思ってるように 自分を妄想していた。
(そうであっても、素で、おかあさん的性質が高いのは周知の通りだが)
しかし小さい子を何人も抱えていたら、そうなるのは無理のないことなんだと思う。
ただ、あげなくていいハードルをあげたり、
持たなくていい使命感のようなものまで持つのは、やはりおかしくなってくる。
と、ずっと前にかきかけたにっきを、とりあえず終わらせておく。